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”調性音楽の誕生から終焉まで” 〜 安岡志歩ピアノリサイタル [音楽のこと]

本日の「ワンコイン市民コンサート」は『安岡志歩ピアノリサイタル』。『調性音楽の誕生から終演まで』と題して、ヨハン・ゼバスティアン・バッハからオリヴィエ・メシアンまで200年の歩みを、調性の変化が音楽の表現、描写にどう影響したのかを検証しながら辿る。

 

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安岡志歩
さんは、
兵庫県立西宮高等学校音楽科卒業、武庫川女子大学音楽学部演奏学科ピアノ専攻4年在学中のフレッシュ・アーティスト。第12回宝塚ベガ学生ピアノコンクール大学生部門第1位。第9回神戸新人音楽賞コンクールピアノ部門優秀賞。
これまでに、室井美智子、田中修二、坂井千春、今岡淑子の各氏に師事されたとのこと。

検証材料として用意されたプログラムは、

ヨハン・ゼバスティアン・バッハイタリア協奏曲 BWV971」(1735年)
ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンピアノソナタ第24番 嬰ヘ長調 作品78 テレーゼ』」(1809年)
モーリス・ラヴェルクープランの墓」(1914-1917年)より
   『プレリュード
   『リゴードン
オリヴィエ・メシアン幼子イエスに注ぐ20のまなざし」(1944年)より
   『2番 星のまなざし
   『8番 高き御空のまなざし
   『10番 喜びの精霊のまなざし
   『11番 聖母の初聖体拝領
   『13番 降誕祭(ノエル)』
クロード・ドビュッシー喜びの島 L106」(1904年)

今回のテーマ、「調性」。昨年2月の『香り高き赤ワイン ~ 永ノ尾文江+鈴木華重子 ベートーヴェン・ヴァイオリン・ソナタ全曲演奏会 その2(→記事参照)』でも、調性が楽曲の印象にどう関わるかが検証されたのだけど、今日は、それが時代とともにどう変遷したかを探ることになる。
かなりアカデミックなコンサートになりそうな気配がする・・・? 覚悟を持って、大阪大学会館へ向かいましょう。

いつもの通り、14:30開場、15:00開演。いつものように、バルコニーA-32。
時間になって、赤いドレスを纏った志歩さんが1920年製Bösendorferに対峙し、息を整えて、その華奢な指先を鍵盤に添える。
最初の楽曲はJ.S.バッハイタリア協奏曲」。

クラヴィーア練習曲集 第2巻」に収められたチェンバロ独奏のための協奏曲は、原題が「Concerto nach Italienischem Gusto」で、"イタリア好み"とか"イタリア風"の協奏曲ってことだが、"Gusto"を"美味しい"と訳したいくらい、ハツラツとして愛らしい。適度な甘酸っぱさがイタリア風? そこはかとなく可愛げで、優美さも伴う。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハが活躍したのはいわゆるバロック期の終わりから初期古典派と言われる頃で、ひとつの時代の変化点。バロック期にイタリアからドイツ・オーストリアに大量輸入された音楽を系統立てて整理統合したのが「音楽の父」こと大バッハ。イタリア製コンチェルトをリスペクトしたのか、イタリア風協奏曲なんて簡単に作れるのだよという顕示なのか、表現力の乏しいクラヴィーア(チェンバロ)の鍵盤の上に華麗なアンサンブルを再現し、表情豊かにコンチェルトしちゃった作品。「練習曲集」として、カップリングされるのが「フランス風序曲 BWV831」。トレンドの最先端を習得しましょうということで出版されたか、ウケを狙ったのか、「音楽の父」の懐の深さを感じさせる。
後に続くラヴェルが"管弦楽の魔術師"なら、大バッハは"オーケストレーションの錬金術師"。それまでの「多声音楽」の流れも汲みつつ、「和声」も「対位」も駆使して、ひとつの"点"である音を重ね連ね、"線"を構成し、"面"を築く。モノフォニーだとかポリフォニーだとかいうと面倒くさくなるから割愛するが、それを幾何学的に編纂し、しかも、のちに現れる近代的な和声や無調音楽的な要素も先取りしているから、流石に「父」と呼ばれるだけあって、スゴイんです!!

クラヴィーア(チェンバロ)のための楽曲ではあるが、現在ではモダン・ピアノで演奏される機会の方が多く、今日はヴィンテージ・ベーゼンドルファーでのプレイとなるが、100年前のピアノの声音はまろみがあって優しげで、何を唄わせても違和感がないように思える。

イタリアン・コンチェルト」を弾き終えた志歩さんに変わって、今日のテーマ「調性音楽の誕生から終演まで」を解説されるのはワンコイン市民コンサートシリーズ実行委員会代表の荻原先生。ステージ後方のスクリーンにスライドを投影してのコメンタリー。
調性・・・、長調や短調、それらから受ける印象。雄大で明るく、ハッピーな長調に対して、暗く悲しい、内面的な短調。それら調性を伴った音楽が成立する以前は、「多声音楽」と呼ばれる、長調でも短調でもない音楽があった。
そして、「調性音楽」に変わって、現れたのが「無調音楽」。調性の片鱗を留める楽曲とその断片すら見出せないような現代音楽、その違いをビーフシチューに例えられるが、調性感が希薄になるまで煮込まれた音楽に、具材のエッセンスを見出すのは難しく、また、それを解説するのは5〜10分では短くて、もっと長い授業が必要?
素材の原型を留めたビーフシチューと、よく煮込まれて、それらが融けてエッセンスだけになったビーフシチュー。どちらが美味しいのでしょう? ワタシの好みは後者・・・かなァ。でも、どうせなら、ビーフシチューより、スパイスをふんだんに効かせたビーフカレーがいいな(笑)。

演奏に戻ります。「」に続いて、「楽聖」さま。
ベートーヴェン
というと雄大な「変ホ長調」というイメージではあるが、もちろんそればかりではなく、様々な調をお使いになっていらっしゃるうえ、それぞれの作品の中で、華麗に、あるいはさりげなく、時にあざといような、転調も駆使して曲調をコントロールされておられる。
ピアノソナタ第24番」は嬰ヘ長調。当時としては珍しく、シャープ(#)が6つもついて、楽譜を見ると焦ってしまいそうになるけれど、鍵盤の上に顕すには意外に優しい。この曲を捧げたご令嬢、テレーゼ・フォン・フラウンシュヴァイク・・・手の小さな女性でも弾きやすいようにという楽聖さまの心遣いなのでしょうか。
テレーゼ嬢は「不滅の恋人」の第一候補? "Für Therese meine liebe(For Therese my love)"・・・なのかは定かではないけれど、あんな厳しい顔をされた楽聖さまの細やかな愛情が感じられる・・・ような。「」に負けず劣らず、引き出しの多さを見せつける。
古典派からロマン派への大きな変化点となった作曲家のちょうど変化の最中に作られた楽曲。時間の都合で、「第1楽章」だけになってしまったのが、残念。

そして、モーリス・ラヴェルクープランの墓(Le Tombeau de Couperin)」。"墓"と言っても、"ヒュードロドロドロ・・・"と、なんか出てきそうな感じにはならず、甘やかで煌びやか。それもそのはず、「Le Tombeau de Couperin」は"クープランを偲んで"といった意味合いで、バロック期のフランス人作曲家、フランソワ・クープランを始めとする旧い時代のフランス音楽・・・「古典フランス音楽」へのオマージュとなる作品。
最初に『前奏曲』を置いて、古典的な組曲風に6連作。『フーガ』や『古典舞曲』、
トッカータ』が連なる。"古典フランス音楽"をリスペクトしつつ、"管弦楽の魔術師"が作ると、クラシカルでありながらモダンな作風に仕上がってしまう。
こちらも時間の関係で、『第1曲 プレリュード』と『第4曲 リゴードン』だけになったのが残念。

Tombeau(墓?)」については、次の記事で深ァく語ります。

ルネサンス期に多く生み出され発展してきた楽器。それらを合奏するに当たって、どのように音を重ねるかは試行錯誤と計算で求められた。そう、"音楽"は"音学"で、幾何学など同じように数学者のテリトリーであったらしい。それよりはるか以前、「三平方の定理」でお馴染みの(?)、かのピュタゴラス(紀元前582年 - 紀元前496年)も、美しいハーモニーを求めて、"音律"を算出されておられる。そんな大昔からヒトは美しいハーモニーを求めて研究を重ねていたのかと思うと、徒や疎かにも出来ず。
幾つもの"音律"、"イントネーション"だったり、"テンペラメント"と呼ばれるものが編み出された。やがて、それを組み合わせる術を理論立てて、学術的に編纂されたのが「和声学」。ハーモニーの「進行」に、意味合いを持たせようと試みることになる。文章家が起承転結を考えるように、あるいは文体を創意するように、音の連なりに法則を与えようとした。誰が聴いても分かるストーリー性を持たせようと考えた。これは恐らく、当時の音楽が宗教と深く結びついたことに関係する。教会でお説法代わりに演奏するとなったら、万民が聴いても理解しやすい語法が必要となったのだろうと想像される。宗教絵画に見られるような"お作法"が音楽にも取り入れられたわけですな。
それがサロンへと移り、より装飾性の高い華やかさが求められ、ハーモニーは複雑化していく。
ところが、"規則"が出来てしまうと、それはそれで足枷、自縄自縛となって、独自性が顕し辛くなってしまう。より複雑なメロディー、変則的なハーモニーを欲して、少しずつ壊してみたくなる。「規則は破るためにある」と、いつの時代もロックな、あるいはパンクな方々がおられた・・・に違いない?
ただ壊すだけでは音楽にならない。"文語文"が"口語文"になったように、その"口語文"が時代とともに変化するように、理論を解釈に因って変容させて、独自の音楽的文法を作り出す。文筆家が文体や語法を選ぶように、作曲家は音楽語法を創意する。で、作曲家の数だけレトリックが現れる。そして、それぞれが影響しあって、より多様なスタイルを生むことになる。
バロックから古典にかけての先人たちが確立した音楽理論を壊したわけでも、終わらせたわけでもなく、それらの語法をレトリック的に変化させて、発見・配列・呈示・記憶・演示したのがロマン派〜近代の時代。時の流れとともに、地域性も含めて、多種多様化していく中で、必然だったのかもしれない。

休憩を挟んだ後半は、それら独自の音楽的文法で書かれたストーリー。

まずは、メシアン幼子イエスに注ぐ20のまなざし」から。
現代音楽のパイオニアでもあるオリヴィエ・メシアンは、パリ国立高等音楽院で、和声学や対位法を学んだ上で、古代ギリシャのリズムや民族音楽の旋法への見識を深め、フランスのオルガニストの伝統を引き継ぎ、オルガンの即興演奏でも優秀な成績を修め、それだけに飽き足らず、管弦楽法や作曲科でも好成績を得て、音楽院で11年の長きに渡って研鑽を重ねたという。加えて、神学者、鳥類学者としても研究に打ち込んだ、学究肌の音楽家。
幼少時から音と色の共感覚を持つなど生まれ持った特異性に音楽院で得た研修結果を加味して、自身が提唱した「移調の限られた旋法」というレトリックを使って、彼独自の音楽を作り出していくことになる。
神学者らしいテーマの長大でドラマティックな作品は、一種独特ながら、具材が溶けるまで煮込まれたビーフシチュー。よく味わうと、古典の風味を見出すことが出来る。

音楽を理解しようとしたら、「和声」や「対位」、「旋法(モード)」などのメソッドを知る必要が出てきて、かなりめんどくさい話しになってしまうのだけど、例えばギター少年が何人か集まって「セッションしようぜッ!!」となった時に、スリーコードでジャカジャーンと掻き鳴らすのさえ、無意識のうちに「和声」でいう"カデンツの法則"に従うことになる。それにもう少し色彩感を加えようとして、いわゆる"ブルース進行"を覚えたり、ジャズ的な"モード"を探ってみたり・・・。アタマで学習するか、指先で弦を手繰って見つけ出すか。
メシアンは頭脳派で、恐らく大バッハもそれで、ベートーヴェンはより独創的な音楽を求めて、ピアノの前で眉間にシワを寄せて、音を手繰っていたのじゃあないかしらン? それとも、衰えた聴力を補うためにアタマの中で完全にシミュレーションされておられたか? 先人たちが遺した音楽を取り込んで、それを一旦解して再構成するドビュッシーラヴェルはその中間派?

で、最後はドビュッシー喜びの島」。
このピアノ曲が発表されたのが1904年。が、この楽曲のための構想はそれよりうんと以前から温められていたようで、当初「ベルガマスク組曲」に組み入れられる予定で書き始めたということだから1890年頃のこと。
ドビュッシーの作品らしく調性感の希薄な、いわゆる「無調音楽」ではあるが、「機能和声」が成立する前の「教会旋法」のひとつに基づいている。この楽曲は、ジャン・アントワーヌ・ヴァトーの絵画作品「シテール島への巡礼」をモティーフとしているとされるが、それが描かれたのは18世紀、ブルボン朝第4代の最高王、ルイ15世の御代。それこそ、クープランが活躍していた時代。そして、絵画の題材は、ヴィーナスが流れ着いたとされる神話の島での雅やかな宴。それを音楽で表現しようとした際に旧い時代の「多声音楽」の旋法が相応しい・・・とドビュッシーは考えたのだろう。
ドビュッシーとエンマ・バルザックの愛の結晶・・・かどうかは定かではないけれど、彼が作曲した楽曲のうち一番幸福感と恍惚感に満ちた曲ではないかと思ってしまう。

ピアノ好き、鍵盤楽器好きのワタシとしては、今回取り上げられた5人の作曲家の、ペンに当たる使用楽器に着目。バッハはオルガンやクラヴィーア、ベートーヴェンもクラヴィーア(ピアノ)、ラヴェルメシアンドビュッシーは作曲の前にピアノを学んでいる。
得意な調、演奏しやすい調がある弦楽器や管楽器と比して、鍵盤楽器は比較的自由度が高く、音階を視覚的に捉えやすい。また、一台で複雑な和音も作り出せる。それが多彩で多様な楽曲を生み出し、彼ら5人の独自のレトリックを育んだ・・・のかなァと思ってみたりして。
それに「」さまはクラヴィーア、鍵盤楽器発展の礎を築き、「楽聖」さまはそれがピアノへ進化する道筋を作られたお方でもある。それら新進の楽器から新しい音楽を作り出そうとされて、現に作り出しちゃったパイオニアでもあらせられる。まさに偉大なる「」と「楽聖」様さまなのよ。片や音楽を芸術の域まで高め、片やそれをより華やかで、より繊細で、より歓喜に満ちたものに昇華させた。
バッハは鍵盤楽器の演奏家としても高名であり、ベートーヴェンはピアノの即興演奏の名手と称えられ、メシアンドビュッシーはともにピアノを学ぶためにパリ国立高等音楽院に入学した。彼らが自由に弾きこなせた鍵盤楽器。それが彼らにそれぞれ独自のレトリックを生み出すきっかけを与えたのではないかなァ・・・っと。

メシアンなどの現代音楽は、苦手な方は苦手だと思うけど、音楽史を語るうえでは外せない。200年を5曲で語るのはちょっと乱暴ではあるけれど、大きな流れは掴めたかなァ。

志歩さんの演奏は、若々しくて、自ら楽しんでピアノに接していると感じられるもの。はつらつとしたアンコールは、ショパンの「練習曲 第8番」。

次回の「ワンコイン市民コンサート」は・・・、

来月、5月15日(日)は「四周年記念企画」として、『高橋悠治+青柳いづみこ デュオ・コンサート ”喪なわれた風景”  サティ、ラヴェル、ドビュッシー、そして高橋悠治』。
大阪大学会館常設の1920年製Bösendorfer252に加えて、もう一台、Bösendorfer225を持ち込んでのとォ〜ッてもプラチナムなピアノ・スペクタキュラー。

エリック・サティ梨の形をした3つの小品』(連弾)
高橋悠治花簂』(ソロ)
モーリス・ラヴェルマ・メール・ロア』(語りつき・連弾)
モーリス・ラヴェル音で聴く風景」・『ハバネラ』、『鐘の鳴る中で』(2台4手)
クロード・ドビュッシーリンダラハ』、『白と黒で』(どちらも2台4手)

を演奏予定。

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5月以降もすごい企画が目白押し。御用とお急ぎのない方は是非どうぞ。

 


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コメント 2

荻原 哲

演奏はメシアンが一番面白かった。ピアノをまるで生き物のように使うメシアン。書法は緻密ですが、出てくる音は実に動的で生き生きしている。「幼子イエス、、」も他の作品もメシアンの(想像される)視覚共感覚的な解釈で、音と色彩感で語られることが多いが、こういった議論は実は不毛だと思っている。メシアンが作曲時に共感覚を使ったのは実に便利だったでしょうね。しかしそれを聞いている人間に共感覚がないのであれば、メシアンの作品に色彩を感じることはなく、色彩感豊かだな(これは音色の問題!)で終わりじゃないのでしょうか?ややego-centricに聞こえるカトリック的表情が時に気になりますが、ともかくメシアンは偉大だね。他の方達はどう聞いたのでしょうかね?楽しめたのか、難解だったのか?
by 荻原 哲 (2016-05-17 08:04) 

JUN1026

荻原先生、コメントありがとうございます。
あの日の終演後、来場された方々の中には、現代音楽はやっぱり苦手、よく分からないと仰っている方もおられました。
メシアンの「幼子イエス」の場合、まず表題で嫌忌されて、散文的な曲調が理解され辛いのでしょうね。よく聴くと、古典的なフレーズも配されているのですが、あまりにコラージュ的なので読み取りにくいのでしょうか。難易度だけで言えば、バッハと大差ないと私は思うのですが・・・。何れにしても、面白い・・・美味しいと感じる前に、食わず嫌いなのでしょうね。
by JUN1026 (2016-05-20 00:03) 

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