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ピアノの夕べ ~ 大田黒元雄のサロン [音楽のこと]

ピアニストにして文筆家。音楽博士で大阪音楽大学教授。ドビュッシー研究家としても知られる青柳いづみこさん。彼女が企画するレクチャーコンサートがJR芦屋駅にほど近い山村サロンにて催される。約百年前のサロン・コンサートを再現するというもので、演目の中にはもちろんドビュッシーの作品も含まれる。
ならば、行かないわけにはいきますまい。

 

いづみこ先生がドビュッシー研究家ということもあって、ドビュッシー好きなワタシとしては、その著作を拝読させて頂くことも多く、彼女がプロデュースするコンサートが近隣で催されれば、その度に足を運ぶようにしている。
これまで伺ったのは、百年前のドビュッシーの作曲風景を再現した「ドビュッシー1914 ~ メルヘンと19世紀末デカダンス(→記事参照)」、ドビュッシーショパンの関係を探る「ドビュッシー1915 ~ ショパンへの想い(→記事参照)」であったり、当時フランス・パリにあった文学キャバレー『黒猫』を再現した「『黒猫』詩人達とドビュッシー(→記事参照)」だったりと、クロード・ドビュッシー(Claude Achille Debussy 1862年8月22日 - 1918年3月25日)をテーマの中心としたレクチャーコンサートだった。

が・・・。

今回は少し趣きが変わって、1915年12月18日に東京は大森のサロンで行われた「ピアノの夕べ」をリプロダクション。
大正四年極月に大森山王の豪壮な邸宅でサロン・コンサートを開催し、そこで自らピアノを演奏したのが大田黒元雄

で・・・。

大田黒元雄(おおたぐろ もとお、明治二十六年一月十一日 - 昭和五十四年一月二十三日)とはどういった人物か。
日本の音楽評論の草分けとして、欧羅巴(クラシック)音楽についての著書・訳書を多く遺す。
チョー裕福な家庭に長男でひとりっ子として生まれ、その財力をもとに1912(大正元)年に渡欧し、倫敦大学で約2年間にわたって経済学を修める傍ら、演奏会や劇場へも足繁く通い、西洋文化や芸術、トレンドを吸収し、貴重なスコアや資料の収集も行う。
その著作を通して、西洋音楽を本朝へと紹介し、ドビュッシー(彼は"デビュシイ"と記した)を日本に知らしめたのも彼が最初であるとかないとか。早い遅いは別にして、当時最先端だった近代音楽の紹介普及に尽力したことには間違いない。ヨーロッパ音楽に直に触れて、それだけでは満足を得ず、音楽史にまで知識を広げた、評論家であるとともに史家、探求家でもあった。

音楽や芸術に触れるということは、それを深ァくアナリーゼ(楽曲分析)して、その構成を解析するだけではなく、時代背景や社会状況、地理的情勢までをも学問的に読み解き、その楽曲の成り立ちから解明する。何ゆえの歓喜か、何があっての苦悩か、その表現が何に起因するのか、その楽曲のモティーフとなったものは何かを探ること・・・だとワタシは思うのだけど、彼はそれを体現された、日本で最初の西洋音楽アナリストでもあった。

アメリカへの亡命途中、船便の乗り換えのために寄港したセルゲイ・プロコフィエフ(Сергей Сергеевич Прокофьев 1891年4月23日 - 1953年3月5日)が船の都合がつかず長く足止めされていると知るや対談し、大田黒の知識の深さ、豊富さから二人は忽ちシンパシーを分かち合うことになる。大田黒はその露西亜人作曲家を自宅に招き、ブックシェルフに多く並んだ楽譜を眼に留めたセルゲイが片っ端から演奏してみせたのだとか。そのサロンには、滞在中の彼が演奏会を催した当時の帝国劇場より立派なピアノが置かれていたらしい。それは1918年のエピソード。時に、大田黒は25歳、プロコフィエフが27歳、天性の自由人は早熟の亡命作曲家・ピアニストと何を語らったのか。

杉並区東荻町に構えた邸宅(大きい・・・大き過ぎるお屋敷が3邸もあったのだとか)は2,700坪もあって、今は「大田黒公園」として遺る。 企業家として幾多の重職を抱えつつ、生涯に渡って76冊の著書、32冊の訳書を上梓し、その内容は音楽だけに留まらず、スポーツやファッションにまで及ぶ。
ハイソでセレブでシャレオツ・・・などと下卑た言葉で語ってはいけないような、想像を絶するほどにスタイリッシュな上流名士、尊敬と憧憬をもって接したいリベラリスト・・・だったのでしょう。

旧制高等学校には進まず、東京音楽学校の教師ペッツォルトに師事し、自らピアノ演奏をもよくした。

で・・・。

自宅のサロンで演奏会もよくした・・・っと。

で・・・。

それを模したレクチャーコンサートが今日、山村サロンで開催される・・・っと。

1915年12月から約一年に渡って、一ヶ月ごとに大田黒が開催した「ピアノの夕べ」では、当時主流であったドイツ音楽ではなく、珍しかったフランス音楽をはじめ、ロシア、北欧、アメリカ、イギリスの音楽が紹介され、出席者はのちに音楽評論家となる野村光一、音楽之友社創業者で作詞家の堀内敬三、作曲家の菅原明朗などで、プログラムはパリに渡った版画家・長谷川潔が「牧神の午後」をモティーフとした装丁を担ったのだとか。
そこで演奏された作品を一部再現するのが今日の内容。

1915(大正四)年12月18日、大森山王のサロンで催された最初の「ピアノの夕べ」では、堀内敬三グリーグフォーレドビュッシーを奏で、野村光一ドビュッシーイリンスキーを弾き、大田黒元雄ドビュッシー作品、「牧神の午後への前奏曲」、「亜麻色の髪の乙女」、「沈める寺」を演奏したのだとか。それぞれが、十八歳、二十歳、二十二歳。欧州への憧憬を旋律に乗せて、"デビュシイ"に対するトリビュート・コンサートはさて、どんな演奏会になったのか。
この演奏会に先立って、大田黒は最初の評伝集『バッハよりシェーンベルヒ』を著し、こののち音楽と文学社を設立、同人誌『音楽と文学』を刊行、評論活動を本格化させる。戦時下とあって、渡欧することが叶わず、国内に留まって、自身が演奏も行いつつ、欧州から持ち帰った楽譜を検証するとともに、携えてきた音楽資料を翻訳することから始まったのだろう。「ピアノの夕べ」は近代音楽の研究会でもあったかと想像する。

時は、その前年に火蓋を切った史上初の世界大戦の最中。時の内閣総理大臣大隈重信は十分な国策会議も開かぬままに、連合国側について、ドイツに対して宣戦布告を行った。主戦場であるヨーロッパに留まることは望めず、それが為に、欧州遊学を残念し、帰国を余儀なくされ、そこから遠く離れた日本にもキナ臭い不穏の気配が押し寄せてくる。その憂さを晴らすための音楽会でもあったろうか。ドイツ、オーストリア、フランス、イギリス、ロシア、イタリア、・・・美しい音楽を有する国々が敵味方に分かれて争い、芸術が戦火に蹂躙されることに対する、ささやかなレジスタンスでもあったのだろうか。あるいは時代を反映したスノッブな夜会となったのか。

彼らが慕う仏蘭西人作曲家はその時、癒えることのない病いと戦争に対する恐れを抱え、戦火が迫るパリにあった。命の残り火を「6つのソナタ」や「12の練習曲」へと熾していた頃。戦争が無ければ、大田黒"デビュシイ"が最後に自演した「ヴァイオリン・ソナタ」を聴くことが出来たかもしれない。

前世紀末から続いたBelle Époque(良き時代)が戦乱とともに終わりを告げて、趨勢Les Années Folles(狂乱の時代)へと移る。文化の中心は海を越えてアメリカへと渡り、Roaring Twenties、あるいはGolden Twentiesへと変遷する。
大田黒が敬愛した
"デビュシイ"が儚くなったのは1918年03月25日。彼の死と相前後するように、16世紀から続くヨーロッパ音楽の秩序は崩壊し、伝統は瓦解し、ジャズとシュルと狂騒の、エキセントリィークなエポックへと移行する。「アスピリン」無しでは過ごせないほどのヒステリーは泡沫のカプリース。時代の先端を疾駆した自由人は、遥か離れた東洋の地でそれをどう捉えていたのか。

今は大田黒公園の記念館に置かれる、大田黒愛用のピアノは1900年製のSteinway & Sons。ハンブルグ製で、寄木細工を凝らした豪奢な逸品であるとか。

山村サロンに備えられたピアノは、ハンブルグ生まれのSteinway & Sons B211ではあるのだけれど、1986年製と若いうえに先の震災でダメになったのを大修理を施して今に至るらしい。ちょっと心配ではあるが、どんな声音を発するかは聴いてのお楽しみ。
どうせならラグジュアリーなサロンで、当時のピアノで、完全再現が望ましいのだけれど、そこまで求めるのは贅沢・・・か。
場所も違う、会場の設えやピアノも異なる。「ピアノの夕べ」どころか真ッ昼間の、13:30開場、14:00開演。そこは、パフォーマンスではなくレクチャー、公演というより講演ということにしておいて・・・。

前置きが長くなった。気分だけでも100年前の「夕べ」に切り替えて、サロンにお邪魔いたしましょう。

JR芦屋駅前のショッピングモールの三階にある山村サロンは、サロンというより小ホールで、ステージは・・・?!
んン?! ステージではなく、"舞台"。二間四方(4.5×4.5メートル)の、檜造りの能舞台?!
大田黒邸は純和風だったのかしらン??
Steinway & Sons B211の背後には老松を描いた松羽目。ジャポニスム過ぎやしませんか?!

IMG_7281.jpg


開演時間になって、その舞台装置にいづみこ先生がご登壇。
青柳いづみこ
の祖父上であらせられる青柳瑞穂は仏蘭西文学者で詩人、美術評論家で骨董品収集家、そして随筆家でもあり、大田黒元雄とも親交があったのだとか。そのご縁もあって、ドビュッシー研究家は大田黒をもリサーチの対象とする訳ですな。

ピアノの夕べ」をトレースする本日の演奏曲は、

エドヴァルド・グリーグ(1843~1907)
   「抒情小曲集 作品43」より『春に寄す
   「エレジー 作品47-7
エドワード・マクダウェル(1861~1908)
   「森のスケッチ 作品51」より『野ばらに寄す』、『懐かしき思い出の場所で』、『秋に』、『睡蓮に寄す
シリル・スコット(1879〜1970)
   「」より『響きあう魂の庭』、『
アレクサンドル・スクリャービン
(1872~1915)
   「前奏曲 作品33-1、2、3
   「2つの小品 作品57」・『欲望』、『舞い踊る愛撫
クロード・ドビュッシー(1862~1918)
   「2つのアラベスク L.66」より『第1番 ホ長調
   「ベルガマスク組曲 L.75」より『第3曲 月の光
   「前奏曲集 第1巻 L.117」より『亜麻色の髪の乙女』、『沈める寺』、『ミンストレル

レクチャー・コンサートということで、桧舞台にスタンウェイとともにスクリーンが用意されて、大田黒や彼を取り巻く音楽青年たちの肖像や関連する作曲家のポートレイト、「ピアノの夕べ」のパンフレット画像やドビュッシーが描いたスケッチ画などが投影される。それを拝見しながら、その解説と演奏を拝聴する。
一曲ごとにレクチャーされるのだが、今回は楽曲解説というより、大田黒元雄というフィルターを通した、彼が遺した評伝の引用や「夕べ」に参画した音楽青年たちから見た、当時の最新欧羅巴音楽事情やそれに纏わるエピソードなどが語られる。
のちに日本音楽コンクールの審査員長を務め、日本ショパン協会会長となった野村光一は、「第1回 ピアノの夕べ」では演奏してみたが、噂を聞き付けて来場した、その当時すでに楽壇の大御所となっていた東京音楽学校の田村寛貞先生の姿を認めるや、指は震え何を演奏しているのかわからないほどに舞い上がってしまったのだとか。そのため「第2回」以降は大田黒の独演会となったそうな。
本当の「ピアノの夕べ」は研究会だったかもしれないが、今日のレクチャー・コンサートは難しいこと抜きで、アナリーゼより「夕べ」に纏わるエピソード集。幼少期のいづみこ先生が野村光一の自宅に招かれた時のお話しまで交えて、肩肘張らないトーク&プレイ。
分けても、やはり、ドビュッシー研究家。彼に関するトピックが豊富で詳細。
その作曲家はオンナ好き・・・特に、髪の長い女性が好きな、ロングヘア・フェティシズム。ロン毛フェチであったというネタが一番受けてましたかね。髪(cheveux)という単語が入っている文学作品を見つけては楽曲に翻案していたとか。そう言われれば・・・、そうですか?!
ペレアスとメリザンド」の成功を以って、一躍大作曲家の仲間入りし、楽譜出版時のギャランティが一気に二桁も跳ね上がったのはいいけれど、懇意となったデュラン社からも出版することとなって、二重契約でその身を危うくしたとのお話し。音楽宇宙の創造神も、性癖は怪しげで、経済観念はインボッシブルだったようですな。

1915(大正四)年に最新の音楽を遠く離れた日本で研究していた人たちがいたと知れただけでも、興味深くて面白い。
それより深い部分は、このレクチャーをきっかけに、今日の来場者が自宅に帰ってから掘り下げればいいこと。
彼らがあえて、主流の獨逸、墺太利音楽ではなく、仏蘭西や露西亜、北欧、英国、米国など、いわば"辺境の音楽"を取り上げたのは何故だろう。そこを考えてみたい・・・かなァ。

大田黒は評伝集『バッハよりシェーンベルヒ』の中で、"デビュシイ"を捉え、"彼の出現は實に音樂の歴史に特筆すべきものである。彼は従前の音樂の有していなかつた新らしい境地を其の天分に依って創造し、音樂の世界に新らしい一つの土地を築いた"と評している。
大田黒
たちが、古典的(ラテン的)で厳格なメソッドに束縛されたドイツ主流派より、もっと自由な気風を帯びた19世紀末〜20世紀のフランスや"辺境"の音楽たちに感じたもの。1960年代のティーネイジャーがThe BeatlesThe Rolling Stonesに熱狂したように、1970〜80年代の"ナウなヤング"がパンク・ロックニュー・ウェイヴにハマったように、1910年代には"デビュシイ"や"フヲーレー"、"ラハマニノフ"、"スクリアビン"が最新流行の先端の先っぽ、ビンビンに尖ったオンガクだと感じたンじゃあないのかな。そう思うと、"ナウなヤング"の・・・、もとい、"ナウなヤング"だったワタシとしては、理解しやすいし、ぐっと親しみが持てる気がする。

注)"デビュシイ"はドビュッシー(Claude Achille Debussy)、"フヲーレー"はガブリエル・フォーレ(Gabriel Urbain Fauré)、"ラハマニノフ"はセルゲイ・ラフマニノフ(Sergei Vasil'evich Rachmaninov)、"スクリアビン"はアレクサンドル・スクリャービン(Alexandre Scriàbine)のことなのだけど、なぜか、『バッハよりシェーンベルヒ』ではそう記されている。因みに、"シェーンベルヒ"とはアルノルト・シェーンベルク(Arnold Schönberg)のこと。旧漢字旧かなづかい的発音?!

そうそう、心配したSteinway & Sons B211の声音は・・・。すっきりとクリアで端正。加えて、能舞台の設えのせいか(まさか床下に穴は穿っていないと思うけど)、ちょっとリバーヴが効いたような残響効果も感じられてユニークな響き。悪くはない。

アンコールは、ドビュッシー子供の領分」から『小さな羊飼い』。野村光一が「夕べ」で弾いて、ボロボロになった曲だとか。

いづみこ先生のレクチャー・コンサート。次は05月15日(日)に、「ワンコイン市民コンサートシリーズ 第54回」として『4周年記念特別企画:高橋悠治・青柳いづみこ2台ピアノによるプラチナデュオ(仮称)』が催されます。
会場は大阪大学豊中キャンパス内大阪大学会館Osaka University Hall、開場が14:30、開演が15:00。
同館自慢の1920年製
Bösendorfer252に加えて、もう一台Bösendorfer225を用意しての2台4手のピアノ・デュオ。
高橋悠治さんをパートナーに迎えての演目は、
エリック・サティ梨の形をした3つの小品』(連弾)
高橋悠治花簂』(ソロ)
モーリス・ラヴェルマ・メール・ロア』(語りつき・連弾)
モーリス・ラヴェルハバネラ』(2台4手)
クロード・ドビュッシーリンダラハ』、『白と黒で』(2台4手)
が予定されています。
ウィーンの至宝Bösendorfer2台が奏でる、プラチナムな響き。聴き逃せませんな。鳴呼、デビュシイ

その前には、
03月26日(土):
泉里沙ヴァイオリンリサイタル

04月17日(日):安岡志歩ピアノリサイタル
も予定されています。広報からのお知らせ、でした。


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